村田修一について話させてください

本日ルートインBCリーグ栃木ゴールデンブレーブスに所属する村田選手が正式に引退を表明した。

 

冒頭にこういう事を言うのもどうかと思うが僕自身、村田という選手は素直に言えば正直あまり好きな選手の方ではない。

 

僕が野球を本格的に見始めたのは2008年からで横浜の4番と言ったら未だに村田修一のイメージは強く、色濃く残ってる。

2008年の横浜は弱く、勝つことがはっきり言って難しいチームだった。

その弱い横浜の試合を見てると村田は引っ張って豪快にレフトスタンドへ運ぶ一撃、右に引っ張ったような右中間への一撃は美しく、魅力的であり、この年は北京五輪で離脱した時があったにも関わらずに本塁打王打点王の2冠に輝いた。

前を打つ内川、そして村田の後ろを打つ吉村とこの3人は弱いチームを応援する中でファンの僕から見たら希望の光のような存在だった。

翌年第2回WBCにも選出され、日本の4番を任され村田に取ってまた飛躍の年になるであろうと思われていた。

 

故障で1人先にチームを離脱し世界一の場面には立ち会うことができなかった。

故障の影響によりシーズン開幕にも間に合わずリハビリの日々が続いた。

村田が帰ってきた時チームは弱いを通り越した何かになりかけていた。

シーズン中に2度目の肉離れを発症しシーズン中の復帰は絶望的と思われていた中、復帰を果たし最終的には20本塁打を越える成績を残した。

だが、この年から解説者やファンからの風当たりは厳しくなりつつあった。自分もこのシーズンの中盤から彼は好きな選手では無くなっていった。

 

そして2010年シーズン、村田はこの年FA権を獲得し移籍が可能になる。

このシーズンは減量して挑んだシーズンであり、出だしは好調であったが持続せずに大失速する。

 

そしてシーズン終盤に住生活グループへの売却という話が報道された上に

この年も息を吐くように当たり前のことかのように横浜ベイスターズは90敗を簡単に越える。

後に住生活グループへの売却話は破談するが、チームの先行きは暗く不安定なものであった。

 

そんな中、同じくFA権を持つ内川は権利を行使し移籍を決意する。

村田も相当この時は迷ったであろう。自分の年齢考えると1年でも早く強いチームで優勝を目指す、したい。

早く強いチームでやりたいという気持ちは彼も内川同様に強かっただろう。

 

弱い上に身売り話もあるチーム、残留したところで未来はあるのか?買い手がつかなければ解散するかもしれないチーム、正直野球に集中できる環境ではないし勝てないチームではモチベーションもあるわけがない。

 

そこで村田が取った行動はあらゆる感情をグッと堪えて「残留」だった。

村田は横浜ベイスターズ最後のキャプテンに任命される。

 

翌年2011年、キャプテン村田が掲げた目標は「全力疾走」だった。

他球団ファンや親会社が移行してからファンになった人は少年野球かと思うかもしれないが、ベイスターズはそこからだった。

挨拶もできなければ全力疾走も出来ないチームだったんです。

 

その目標通りチームはキャンプ、オープン戦、そしてレギュラーシーズンが開幕してからも全力疾走を繰り広げ、このまま最後まで全力疾走をチームで続ければと横浜は変われる!…と思ってた時期が僕にもありました。

 

やはり現実は厳しく辛いものであった。

全力疾走を掲げた本人もチーム状態の悪さに折れたのか真っ先に全力疾走をやめてしまった。

チームが失速し始めると同時に村田もモチベーションが無くなったのか成績が下降する。

正直この年は村田はもっといい成績を残して欲しかったと今でも思ってる。

2011年シーズンのオフ、村田は1年我慢したFA権を行使し、念願の移籍を果たす。

ただ、2011年のオフ、横浜ベイスターズはスレッジやハーパーも退団したこともあり、残留して欲しかったなという気持ちはあった。

 

2012年シーズン、この年からは今まで4番を打ってくれてた男が今度は敵になる。

巨大戦力が犇めく巨人においては村田は小さい存在に見え、重圧に押し潰されたのか思うような成績は残せなかったものの、チームは圧倒的な強さでリーグ優勝、日本一を勝ち取り村田本人の夢は叶う。

 

翌年2013年シーズンも中々調子が上がらなかったが、フォーム改造や巨人に適応したのか夏場以降一気に成績を上げかつての威圧感を取り戻し、ビシエドに塗り替えられるまではセ・リーグ月間最多安打記録を樹立するなど巨人軍の連覇へと貢献しオフにはしきたりの厳しい巨人軍において異例とも言える、外様でありながらの選手会長に任命される。

 

翌2014年も打撃に守備に躍動し3連覇へと貢献したが、2015年シーズンこの年は村田がプロに入って最も苦しんだシーズンであろう。

 

2015年シーズンは調子が全く上がらずに故障も多く、プロ入りから続いてる二桁本塁打が途切れるのではないかと思われたが最終的には2桁に載せた。

しかしながら、全ての数字においてほぼキャリアワーストクラスの成績になってしまい、村田はこのまま衰えゆくのだろうかと思っていた。

 

前年の不振の影響からか当時2年目の岡本和真とのレギュラー争いから始まり、岡本に競り勝ち三塁のレギュラーを死守するとこの年は見違えるかのように打ちまくり前年の大不振はなんだったのかと思わせるほどだった。

クライマックスシリーズで古巣DeNAとの第3戦、村田は石田から足に死球を受け一度は担架でベンチ裏に退くがその後ゲームに復帰すると9回裏どん詰まりの内野ゴロに痛めた足で全力疾走で一塁ベースを駆け抜け内野安打をもぎ取るガッツを見せつけた。

 

そして、去年2017年

村田にとっては屈辱的な出だしだっただろう。

巨人軍は昨シーズン3割打った男と同じ三塁手である元楽天ケーシー・マギーを獲得したのである。

オープン戦まで調子が上がらずマギーに開幕スタメンを奪われてしまう。

前半戦は不慣れな代打出場が続き、ストレスが溜まってたのかついテレビの前で愚痴のようなものを言ってしまう。

しかし低迷する現状を打破するために三塁手のマギーを二塁に回し、村田はようやく三塁レギュラーとして復帰し、打ちまくったとまではいかないものの一定の成績を残し、翌年も契約があるかと思われていた。

しかし10月13日、衝撃的なニュースが報道される。

それは巨人軍が村田修一自由契約にしたということだった。

 

若返りを目的とした自由契約で村田を獲得しやすくするための措置ではあったが村田へのオファーは年内は一切無かった。

そして年が開けて2018年、とうとうキャンプインの2月1日まで村田を獲得する球団は現れなかった。

3月にプロ野球独立リーグBCLの栃木ゴールデンブレーブスに入団を決め、7月31日までのNPB復帰を目指す日々が始まった。

BCリーグの環境は過酷であり、ずっとNPBで過ごしてきた村田からすれば想像を絶する物があったであろう。

BCリーグで過ごす日々を送るうちに村田にある変化が現れ始めた。

村田は今まで自分第一の言動が多かったが、客観的に物事を見てるというか村田に足りなかったベテラン選手としての目線がようやく備わってきた。

必死にもがき続けるもののついに7月31日まで村田に獲得意思を示すNPB球団はなく、翌8月1日村田はNPB復帰断念の会見を開き最後の試合まで栃木ゴールデンブレーブスでプレーすることを表明した。

BCLにおいて彼と対戦相手、選手、そして自軍の選手は大きな経験を得たと思う。

 

そして今日、9月9日小山運動公園野球場にて行われた対群馬ダイヤモンドペガサス戦にて村田修一ラストゲームが行われた。

 

村田自身は5打数1安打で最終試合を男のケジメをつける試合を終えた。

僕自身は試合を見に行かず、映像も把握してないが見た人にだけ分かる背中から伝える村田からの最後のメッセージはあったのではないのだろうか?

試合後のセレモニーでメッセージが読まれる中泣きそうになる姿は見ているこちらまで泣きそうになった。

そしてセレモニーの最後村田修一選手によるスピーチでついに「引退」その2文字を本人が使った。

正式に村田修一が引退を表明したのだ。

決して納得のいく引退の仕方ではないだろう、どこか心残りはあるだろう。

 

何故村田を獲得する球団はないのかと議論がある度に常々ネットではとある発言であったり、素行や性格などを理由で上げられていた。

村田修一という男は「男・村田」を自称し横浜時代髭を生やしたり、剃りこみを入れたり、髪を染めてみたりしていたが決して粗暴な性格ではなく繊細な性格である。

 

それに横浜時代あまり練習してないのも否定はできないし、監督室で寝てたのは駒田のコラムにも書かれていたことがある。

正直この時の横浜の弱い以下の何かの原因を村田に押し付けていたファンは多いと思うし、自分もそのうちの一人。

当然村田一人が悪いわけじゃないのは分かりつつも…

だが、それらの問題行動は村田がまだ若く、生え抜きだったから故の大将気取りというところもあったのだろう。

そこは横浜晩年影を潜め、キャプテンに就任し巨人では真面目だったはずだ。

さもなくば、しきたりや周囲の目がうるさい巨人軍において外様でありながら選手会長になるのはありえないことだ。

それに投手野手の垣根を越え食事に誘ったり、後輩やチームメイトからの人望が厚かったという記事を読んだこともある。

では何故今季村田を獲得する球団がなかったのかと考えると、色んな制約もあるがどの球団も構想段階からシーズン通して一塁もしくは三塁が埋まってたこと。

そしてBCLに移籍するまで欠けていたベテランとしての目。

古巣の巨人では岡本和真の覚醒、DeNAではロペスが故障で離脱するもののソトがいたためチャンスがなかった。

本当に今年は村田にとっては不運な年なだけだっただけで村田はまだやれるし、計算できる選手だと思ってる。

 

恐らくそれは本人も分かってるだろうし、まだやれる、できるとどこかで思っているはず。

しかし、自身の年齢立場を考えると1年以上待っていることはならなかったのだろう。

 

1年限りのチャレンジ、そのケジメをつけるために村田は引退したのだと思う。

 

プロに入ってからルーキーから引退するまでの16年間で毎年2桁本塁打放ったのは素晴らしい成績だ。

 

独立リーグでの成績を合算しても通算1937安打と僅かに2000本安打に足りないが数々の素晴らしい成績を残してくれた選手でした。

村田選手、お疲れ様でした。